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襟裳(えりも)は日本海軍の給油艦〔。知床型給油艦の3番艦で〔、艦名は北海道の襟裳岬による〔#日本海軍艦船名考pp.227〕。 == 艦歴 == 1918年(大正7年)度の八六艦隊案で計画され、「知床」に続いて川崎造船所で1920年(大正9年)12月16日に竣工、呉鎮守府籍となる。平時は海外からの重油輸送に従事、1937年(昭和12年)からの日中戦争には中国各地への輸送任務に当たった。 1941年(昭和16年)11月22日に呉を出撃し、太平洋戦争開戦の12月8日に馬公に入港した。同地でボイラー用および内火機械用重油8,000トンと真水606トンを搭載し〔『戦史叢書24』378ページ〕12月11日に出港、21日にカムラン湾に到着した。当時、第十五軍(飯田祥二郎中将)をシンゴラに輸送する計画があり〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030118900, pp.4〕、第十五軍の将兵を乗せた輸送船や護衛艦艇に対する燃料補給用のタンカーとして「黒潮丸」(中外海運、10,518トン)が充当されていた〔『戦史叢書24』560ページ〕。しかし、「黒潮丸」は機関の不調により任務から外され、その代わりに燃料補給任務が与えられる事となった〔。燃料を7,000トン以上搭載して1942年(昭和17年)1月4日にカムラン湾を出撃し、1月5日に船団に合流〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030118900, pp.17 、『戦史叢書24』563ページ〕。補給後、シンゴラに回航された〔『戦史叢書24』563ページ〕。以後はサイゴン、サンジャック、アナンバス諸島の間で行動し、第二艦隊(近藤信竹中将・海軍兵学校35期)付属として艦艇に重油を給油し、蘭印作戦を支援した。3月1日に連合艦隊付属に編入される。 3月1日にアナンバス諸島を出撃し、ジャワ海に進出して第六駆逐隊に対する燃料補給を行った後、昭南(シンガポール)に回航するよう命じられる〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030119100, pp.40〕。3月3日に駆逐艦「長月」と「水無月」に対して燃料補給を行ったのに続き、3月4日にも「松風」に対して燃料補給を行った後〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030119100, pp.70〕昭南に向かったが、の地点〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030119100, pp.46〕でアメリカ潜水艦S-39 (''USS S-39, SS-144'') の雷撃を受ける〔The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 〕。S-39 は目標を「厳島丸」(日本水産、10,006トン)あるいは「建川丸」(川崎汽船、10,090トン)と推定して〔「SS-144, USS S-39」p.34〕魚雷を4本発射し、うち3本が命中して爆発するのを確認した〔「SS-144, USS S-39」p.33〕。15時5分にビリトン島近海で沈没し、「松風」と軽巡洋艦「由良」によって特務艦長相馬信四郎大佐以下162名が救助されたが、18名が戦死した〔『第五水雷戦隊戦時日誌』C08030119100, pp.46,70〕。 同年3月14日に第4予備特務艦となり〔#昭和17年1月~3月 内令 1巻/昭和17年3月(2)画像21『内令第四百四十六號 呉鎮守府豫備特務艦 特務艦襟裳 右第四豫備特務艦ト定ム 昭和十七年三月十四日 海軍大臣 嶋田繁太郎』〕、除籍は終戦後の1947年(昭和22年)5月3日となった。これは船体の一部分が擱座など何らかの形で水面上に露出したまま残存した事を物語っている〔このパターンで、戦争初期に沈没して終戦後に除籍された艦艇には、例えば第2号掃海艇、第13号掃海艇、第14号掃海艇、第19号掃海艇がある(『日本の軍艦13』211、213、214ページ。いずれも1945年(昭和20年)11月30日除籍)〕。ただし、当時の記録では「沈没」と明記されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「襟裳 (給油艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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